今回は、「場」という概念を多用してみました。
ここでいう「場」とは、仕事場でも、睡眠の場でも、広場でも、砂場でも、思い出の
場でも、何でも良いですが、一つの人間の思考対象となる世界です。それぞれの「場
」は互いにネットワーク状に関連づけられ、それぞれに干渉しあいますが、ある程度
、それぞれが独立してそれぞれの世界を形成しています。
実身仮身ネットワークは、人間の思考形態を忠実にまねた物だという人があります。
そこで、実身仮身ネットワークをこの「場」で考えたとき、実身の意味する物とは、
「砂場に置き忘れた赤い漏斗」であったり、「思い出のあの日に恋人と見た流れ星」
であったり、「昨日落とした黄色い傘」だったり、「仕事の後の一杯」だったり、「
友達と喧嘩をしてできた頭のたんこぶ」だったり、そういった、それぞれの場の中で
語りかけてくるいくつかの対象ではないでしょうか。
たとえば、どこかの場の中で意味を持つ「学校」、その学校という場の中でのみ意味
を持つ「あの机」、机がまた同様に一つの場を作りその上に「写真」が存在すると同
時に、その写真は「同窓会の会話の中」という全く別の場の中で同様に意味を持つ。
そう言った対象と対象とのつながりの中で、実身名というのものを考えた時、それは
、また、少し違った見方ができるのではないかと思います。
# この「場」の世界では、時間も空間も超越して、物と物とが Cross Link
# しているところが、凄い。
# この辺が最近「実身は単独でネットワークから取り出せないかも知れない」と
# いっている感覚だったりします。
そんなこんなで、実身名をこの場に当てはめると、まさに<対象の名前==実身名>
であり、実身が「場」自体を形成し、実身名(仮身)が周囲の場の中で様々な意味合
いを帯びてくる。これは、「仮身に表示される名前が実身の中の Context で意味を
持つ」と言い換えることができます。実身自体、例えば「実身名:靴」は、色々な場
の中で使われ、色々な意味を醸し出すことができる。いくつかの「靴」はもちろんあ
る「靴」とは違う別の物かも知れませんが(別の実身)、同じ靴でさえ、球技大会(
場)で優勝した時にはいていた「靴」と雪の日の学校の帰りの道端(という場)で雪
と戯れた「靴」とは、表すモノが違うのです。
さて、では仮身名とはなんなんでしょう?
仮身名は、実身名のそう言った意味の色彩を補うモノだと考えます。やはり、実身仮
身ネットワークでは、モノと場、モノとモノとの繋がりは表せても、その繋がり自体
の意味するものは何も云いません。そこで、仮身名で「繋がりの意味」を表現するの
ではないでしょうか?
そう考えると、他との識別のために実身名を長くしたりするのは、せっかくの「場と
名前」というデータ構造から逸脱して、旧式のデータ構造に舞い戻るような感じがし
てなりません。
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Hideaki Suzuki (SO in Bridgewater State College)
e-mail H1Suzuki@Bridgew.edu
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